季節に頼らない訴求が今後増えるかもしれない:何気なく聞くマーケティングコラム

事実新聞の編集長、柿沼が皆様に生活者の「事実」をお届けするコラムです。

日々の雑談で聞いた何気ないつぶやき、すれ違う生活者や、お店のなかで何気なく目をひいたモノ・コトなどから、明日のマーケティングのヒントになる芽を探っていきます。

 

「キンモクセイの香りを嗅ぐと厳しい夏を乗り切った感じがしていたんだけど、今年はそれがないのよね。春と秋が短くなって、この先なくなるのかも」そう主婦マーケターのDOさんが嘆いた。

これには筆者も大きく頷いた。思えば、今年の花見はダウンを着込んでいたし、そういえばここ数年はずっと同じ塩梅だ。

帰宅前の買物で立ち寄ったスーパーで、何気なしに、エンドに飾られた『10月13日は“さつまいもの日”』というトップボードのPOPが目に入った。江戸時代、おいしいと評判のさつまいもの産地であった川越が、江戸から十三里の距離にあったために「十三里」と呼ばれたという説が元のようである。

そこから旬にあたる1013日を『さつまいもの日』と定めたのだそうだ。当時、『九里(栗)よりうまい十三里』という洒落が江戸っ子にウケていたとか。栗もさつまいもも「秋」の味覚の代表格だ。栗ご飯。さつまいもご飯。これを食べると「ああ秋だなぁ」と思う。

そんな夢想から一転して違和感を覚えたのは、POPから目をそらして、店内を見渡したときだ。店内のほぼ八割の客が、半袖姿なのである。私のような中年男性はこぞって半袖のワイシャツ姿だし、主婦もTシャツである。大学生と思しき若者に至っては半ズボン姿だ。そこに秋はまるでなかった。ただPOPだけが、静かに秋を告げていたのである。

春と秋がなくなれば、今後の販促にも関わってくる

「春ならでは」「秋ならでは」の味覚は、生産の時期としては「旬」であっても、消費者側の食シーンとマッチしなくなる。先の売場では、別のエンドで「おでん」が展開されていた。過去の1013日なら、きっと我が家も今シーズンの「初おでん」であったかもしれない。しかし、実際にセレクトしたメニューは、夏と変わり映えのしないものだった。家の中でも、家族は皆、半袖姿であった。

「秋の味覚」のような四季や旬からの訴求ではなく、特定のある日を「〇〇の日」として訴求していくことは、この先さらに重要になっていく

これまでは「記念日」としての意味合いが強かった「〇〇の日」は、季節や旬を体感として感じられなくなったいまとなっては、その日・その頃合いに食べる必然性をもたらす意味合いになるのである。旬だからさつまいもご飯にするのではなく、「さつまいもの日」だからそうするというように。いつの日か、私たちの子ども達が大人になった頃、彼らは半袖と半ズボンで栗ご飯やさつまいもご飯を食べる。それが彼らにとって当たり前の旬の風景になるのかもしれない。

ただ、こうも思う。陽気や気温ではなく、POPから季節を感じる。エンドの食提案から四季を知る。これすらなくなってしまったら、この先この日本からは本当に秋はなくなってしまうのではないだろうか。せめて食からだけでも日本の四季を伝えることは、必要ではないだろうか。そのことに気づき、たとえ半袖であろうとも、今夜の献立をおでんとさつまいもご飯、そしてこれに合う日本酒にしなかったのは痛恨の極みと、激しい後悔のなかでいまこの手記をしたためている。

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

シェアしていただけるとうれしいです

この記事を書いた人

株式会社ドゥ・ハウス 事実新聞編集長

コメント

コメントする

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)